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THE GOLF FUNDAMENTALS
-  ゴルフ経営原論  第二部 ビジネスマネジメント  -
第四章 デジタルマネジメント
Section 1 目標・標準のデータ化と差異分析

マネジメントは目標や標準を設定することから始まる。マネジメントは人や組織のパフォーマンスを効率的に引き出すシステムだから、人や組織が目指す目標や達成可能な標準がなければ努力が継続せずパフォーマンスが引き出せない。そこで目標や標準をデジタル化つまり数値や記録で表現しデータ化することから始める。
目標も予算も結果も多くが数値によって表現され記録される。数値は言葉と違って記録や分析がし易い。人の行動記録にしても日記だけでは分析しにくいが、数値で表現できるものはデータになり分析し易い。例えば一日平均何時間読書をしたか、一年間に何冊読んだかはデータ化して初めて認識することができる。読んだ本を分析するにも記号によって分類し、数値化しなければ明らかにならない。雑誌が何%、小説が何%、古典が何%、そのうち日本物と外国物の比率など記号分類し数値表現しなければ分析のしようがない。このようにデジタルマネジメントは目標や標準、記録や分析をデータ化することによって発達してきたのである。

コンピュータの発達

コンピュータは本来、記憶装置のついた計算機に過ぎない。コンピュータは最近まで大きく高価なうえ機能も大したことはなかったが、電子工学やIT技術の進歩によってコンピュータの応用範囲がどんどん広がった。さらにパーソナルコンピュータの普及によって至るところで利用されデータ処理されるようになったが、米国アップル社スティーブ・ジョブスが最初のパソコン開発者といわれるほど最近のことなのである。いま私たちにとってパソコンはなくてはならないものになったが、ケータイにしろインターネットにしろ21世紀になって利用され普及しはじめた時代の先端技術である。だから長尺チタンヘッドウッドや低重心ワイドスポットアイアンと同世代なのだ。
いくらクラブが進化したからといって、スイングの基本ができていなければクラブが機能しないのと同様、いくらパソコンが進化してもマネジメントの基本ができていなければデータもデータ分析も機能しない。コンピュータの発達によってデータの記録も分析も驚くほど進化したが、データだけが宙に浮いて一向に経営やマネジメントに生かされていない現実があることも承知していなければならない。
これからもコンピュータやIT技術はますます進化するだろう。それに連れていろいろな分野でデジタル化が進み、データや分析結果が情報として氾濫するだろうが、いかに高度な情報もアナログ実態に即した現実に対応できるものでなければ、反って弊害を生むことも承知していなければならない。データや分析結果はあくまでも情報であって、マネジメントの参考にする資料にすぎない。情報データに惑わされて経営判断を誤ったトップマネジメントも多い。サブプライムローンやデリバティブなどの金融商品もコンピュータが創造したバーチャル商品で、どれほど多くの人を惑わし破滅に追い込んだか分からないことも決して忘れてはならない。

目標・標準のデータ化

最初に述べたように目標や標準は数値で示される方が良い。数値以外の言葉や記号で示されると照準がぼけてマネジメントが巧くいかない。例えば目標が「トップクラス」とか「一流の」と言う表現で示された場合や、標準が「並み以上」とか「リーズナブル」と言う表現で示される場合には、漠然としていて目標や標準にならないのである。そこで目標として「県内で10番以内」とか「全国で100番以内」という表現は分かり易いし、「全国平均○○」を標準に設定するという表現も理解し易い。
目標や標準を設定したら現在自分たちがどのレベルにいるかを明確にしなければマネジメントにならない。そこでリアルタイムのデータをとって、現在ポジションを常に意識しなければ現場のモチベーションに繋がらない。あとどれくらいで目標に到達するとか、標準が達成できるという充実感が更なる継続努力を生み出すもので、この日々の充実感がなければ人も組織もマネジメントできない。日々のデータ集積があれば、そこからいろいろなデータが算出されるが、余り複雑になりすぎて反って意味をなさなくなることもあるので注意しなければならない。
例えば現代医学は血液や尿を分析していろいろなデータを提供し、各項目に標準値を示して病気診断や健康管理に役立てているが、健康な人でも全項目が標準値に収まることはめったにない。何十もあるデータから重要項目をピンポイントで時系列的に観察しなければ意味がない。定期健診で標準値を越えた項目があったからといってインターネットで調べたりサプリメントを飲み始めたり大騒ぎをする人がいるが、そういう人は最初に精神科の診察を受けるべきだ。
マネジメントするうえでデータ化は必要だが、余り複雑にし性急に判断することは反って逆効果になる。データ化に必要なことは正確に定点観察を記録することと、継続的な記録を時系列観察することである。そのデータが異変や異常を知らせる警告になり、成長や衰退を示す指標となってマネジメントを補佐するからである。

観察と判断

データを取れば必ず突出した異常項目がある。その異常項目の原因を究明するにはデータの源泉となる実態を集中観察することと、その項目を継続的に時系列観察することが必要である。特定項目に異常値が出る場合、単純な観察ミス・記録ミスによることも結構多い。記録をとったとき周辺環境に突発的な異変や異常があったかもしれない。人間も芝草も気象状況の変化で簡単に体調不良を訴えるし、過食や過肥で異変を起こす。消費や景気も為替相場の変動や株式市況の変化で簡単に異変が起きるし、天災や事件によって決定的に変化することもある。
データは分かり易い数値によって的確に異常や異変を知らせる機能があるからそのデータの観察は大切だが、その判断はもっと重要である。データの観察と判断こそマネジメントの機能と役目といって差し支えない。医者が患者の、コーチが選手の、経営者が組織や市場の異変に気がつかなければ大問題だし、判断を誤れば命取りになる。マネジメントとは積極的な意味でも消極的な意味でも、記録し観察し判断することの繰り返しであるが、これを経営学ではPlan-Do-Seeのマネジメントサイクルといっている。

差異分析

データを観察すれば異常や異変、成長や衰退は標準値や平均値との差異で現れるから迅速に認識することができる。差異分析はマネジメントの重要課題で次のステップへの判断材料になる。ステップアップかリピートかフィードバックか判断するのがマネジメントの役目であるが、例えリピートやフィードバックの判断をしても、常に明日の成長や向上を考える点がマンネリとは異なる。
しかし成長や向上も永久に続くことはありえない。人間も身長・体重ともに20歳を境に成長が鈍りやがて止まるが、もし成長し続ければ一大事である。また肉体的成長が止まっても精神的・社会的成長は続くものだが、もし成長が止まれば大問題である。このように差異は異常や異変、成長や衰退を示す指標であるが、差異の絶対値や連続性はいろいろな意味を含んでいるから、一元的に判断することはできない。人も組織も量的成長段階と質的成長段階があり、さらに誕生・成長・停滞・衰退・消滅の5段階を宿命的に辿ることも承知していなければならない。データによる差異は異常・異変の状態や成長・衰退の度合を数量的に認識させる意味と効果がある。
東北地方に大きな地震があり巨大津波が襲ったといえば驚くに値するが、マグニチュード8.0の地震が襲い20メートルを越える津波が東北沿岸一帯を数回にわたり襲ったが、この規模は過去1200年の記録にない。といえば直ちに総理府に対策本部を設けなければならないことを全ての人に認識させる。目標や記録のデータ化と差異分析はマネジメントにとって必須要件であるが、このマネジメント手法をデジタルマネジメントと表現している。

標準とは何か

21世紀に入って急速に標準がグローバルスタンダード化した。つまり標準が世界基準になってきたということである。標準とはスタンダードのことでローカルスタンダード、ドメスティックスタンダード、ディファクトスタンダード、グローバルスタンダードなどの概念があるが、インターネットの普及によって実質的に国境がなくなり、基準や標準がグローバル(地球規模)に拡大したことを表わしている。物事の質量を比較検討するには標準や基準(スタンダード)が必要だが、人や企業の行動や活動が特定区域に限定されていたときは標準がローカル基準でよかったものが、段々区域が拡大し国内に収まらず国境を越え、やがて世界に広がったことによってグローバルスタンダード化した。
グローバルスタンダード化も世界規模のイノベーションだからいろいろな問題を引き起こし混乱も招く。例えば日本の制度や生活を支えてきた米(コメ)について検証するとコメ生産は国家の基幹産業であり、国や大名・武家の財政力をコメの生産量・配分量を表わす<石高>、つまり加賀100万石とか100石侍などと表現していた。計量基準として1石は10斗・1斗は10升・1升は10合で表わすが、生産量は<俵数>で表わし、1俵に4斗の米が入っていることが標準になっていた。反当り生産高は上田(上級田)で標準10俵とされ、四公六民の配分基準に従って4割に当たる4俵が標準租税として徴収される制度になっていた。地方自治体に当たる藩と、役人に当たる武士はコメを基準にした財源によって生計を営んでいたため、組織も家計も米価を基準に構成されていた。いわゆる金本位制に対する米本位制で、日本では米の保有量が貨幣価値や物価を裏付ける基準だった。
しかしグローバル時代に入るとコメに対する概念や評価がグローバルスタンダードに変わらざるを得ない。コメは単なる穀物商品に過ぎないとする諸外国から日本はコメの自由化を求められて大混乱したが、理由は日本の伝統的なローカルスタンダードが崩壊するからに他ならない。そればかりではなく重農主義による農業保護政策が根底から崩れ去るからである。
国産米の標準小売価格が1キロ500円前後で安定していた国内市場に、自由化によって突然1キロ50円前後の外国米が輸入されることになったために、日本の農産業は大混乱した。本当は既に100年前に日本は脱農業を図り工業立国を目指して成長してきたため、社会全体としての農業依存度は低く農業人口も5%に満たない。しかし戦争の時代のみならず、歴史を通して食糧不足を体験した人々の心に、コメに対する特別な思いが残っている。
既に現実は日本人の食生活が変わり、コメを主食とする人がどんどん減って消費量は年間1千万トンを割っている。国民一人当りにすると100キロ弱になるが、実際は身辺に年間100キロのコメを食べる人はめったにいない。それでも政府は農業政策を変えることができず、1キロ50円で輸入できるコメを政府の財政支出によって250円以上で国内米を買い上げ、余剰分は古米や事故米として1キロ10円程度で再放出している。
このようにグローバル化とは、容赦なくローカルスタンダードの変更を迫って新たな標準や基準を受け入れさせる社会変化である。受け入れなければその社会は衰退し、やがて崩壊してしまうほどのパワーがあるのは、それが歴史的必然なのか社会的道理に基づく原則なのか良く分からない。

ゴルフのグローバルスタンダード

ゴルフのグローバルスタンダードといえば最初に考えられるのは1951年米国USGAと英国R&Aの協議によって競技規則が統一されたことだろう。この時点でゴルフ規則が一本化され、各国ゴルフ協会が批准することによってグローバルスタンダード化したが、現在でも各クラブの裁量によってローカルルールを制定することは許されている。
コースの状況や競技の内容によってローカルルールを決めた方が都合の良い場合があるが、その代表的な例としてOBやロストボールの処置がある。元の位置に戻って打ち直す原則処置は「危険の防止」「競技の遅延」の観点から現実的ではない。そこで実際は公式競技以外の一般競技では現実的なディファクトスタンダード(実際基準)を優先させている。いつの時代もルールの乱れが指摘されるが、基盤にグローバルスタンダードが制定されていれば、ディファクトスタンダードやローカルルールが現場の混乱を緩和してくれる場合が多くメリットもある。
ゴルフのグローバルスタンダード化の第二は世界共通ハンディキャップ基準の制定である。永年ハンディキャップは英国R&Aの方針に従い各クラブの自由裁量に委ねられたローカルハンディキャップ制度を採ってきた。戦後各国ゴルフ協会は米国USGA基準を参考に協会公認基準を定め、加盟クラブに参考基準として提示し、最終的には各クラブのハンディキャップ委員会の決定に委ねた。
各クラブの自由裁量に委ねるR&A方針をディファクトスタンダードとしていたことになるが、実際は統一性も信頼性もないイイカゲンな制度だった。この制度を問題にしたUSGAは制度改革に取り組み、1998年世界共通ハンディキャップ制度を発表し、保守的な日本ゴルフ協会と英国R&Aを除く各国ゴルフ協会が批准して正式にUSGAハンディキャップ制度がグローバルスタンダードとなった。その後英国R&Aも批准してゴルフが復活してきたが、日本ゴルフ協会は取り残されて低迷している。

 

参照:
ゴルフ基礎原論 第一部ゴルフゲーム:第四章 Section 5

 

料金・価格のディファクトスタンダード

自由競争市場ではサービスの料金も商品の価格も需要供給の法則に従って決まるため、通常は相場といっているディファクトスタンダードが成立する。しかしグローバル化が進む以前は、極めてローカル性の強い性格を持った、いわばローカル・ディファクトスタンダードといえるものが地域市場を支配していた。例えばコース練習場の料金は、規定も基準もないから地域ごとの相場で決まる。練習場の料金は都市部で1球15円前後、地方で10円前後という相場が支配しているが、地域同業組合なども違法を承知でこの相場を維持しようとしている。
コースの料金は経営形態やコースの格で相場が決まっていたが、需要不足の時代になると相場を維持することが難しくなってきた。理由は需要に当たるゴルファー数も利用回数も減少する中で、供給に当たるコース数が殆んど減少しないことから、均衡が崩れて需要供給の法則が働き始めるからである。需要供給の法則に従えば需要が減少すれば価格が下がるが、価格が下がれば需要が増加するか供給が減少する。しかし、やがて均衡が崩れて再び価格は上がり始めるので、また元の相場に戻りディファクトスタンダードが維持される。
こういう現象が地域毎に起こるから地域料金体系をローカル・ディファクトスタンダードといえるのだが、これは地域消費者の暗黙の信認に支えられて成り立っている。ところがグローバル時代を迎えると、世界標準を知った消費者の暗黙の信認が失われて、だんだんとローカル・ディファクトスタンダードが崩れ始める。これが世界規模で起こることをグローバル時代といっている。
IT化とグローバル化は同時進行したというより表裏一体と考えられる。IT化しなければグローバル化しなかったし、グローバル化を伴わないIT化はありえないからである。IT化が進むと地域の人たちが世界の標準相場を知ることになるから、ローカル・ディファクトスタンダードを信認しなくなる。標準相場より安過ぎれば供給者がバカバカしくなって、その地域に対する供給を減らすか止めるだろうし、高過ぎれば需要者がバカバカしくなってその地域からの需要を減らすか止める。
つまりグローバル時代は需要供給の法則が世界規模で働くことになるため、あらゆる分野でローカル・ディファクトスタンダードが崩れる。 その観点から日本のコース料金を検証すると、余りにもグローバルスタンダードからかけ離れて高過ぎるため、その事実を知った消費者の信認を失ってやがて料金価格の総崩れを起こすだろう。

グローバルスタンダードとの差異

コース料金のグローバルスタンダードとはどのようなものか。NGFは全米の標準データを発表しているが、この数値が欧米豪州のスタンダードとして定着している。このデータによれば公営パブリックコースの18ホール料金はUS12ドル、商業パブリックコースでUS25ドル前後である。近年、都市近郊に高級パブリックコースができているが、それでもUS50ドル以下である。
これに対して日本のコース料金は世界一高額である。日本には純粋のパブリックコースは少なく、殆んど準会員制によるメンバーとビジター及び平日と休日の複合二重料金制度を採っている。この料金システムが日本という地域のローカル・ディファクトスタンダードとして定着しており、メンバー料金は全日US80ドル前後、ビジター料金は平日US100ドル、休日US200ドル前後である。名門といわれる古い会員制コースの休日ビジター料金はUS400ドルもする。日米の所得水準及び物価水準に較差はないにも拘らず、コース料金には大きな較差がある。
グローバル時代を迎えて、このローカル・ディファクトスタンダードにどのような影響が及ぶか予断は許されない。NGFが発表する各種データがグローバルスタンダードとなっている現状から、このデータはデジタルマネジメントにとって極めて重要な意味を持つようになるだろう。つまりこれからのコース経営にとってローカルスタンダードとの差異分析は余り意味がなく、グローバルスタンダードとの差異分析に重点を置かなければ競争市場に残れないだろう。