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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第5章 惻隠と寛容

惻隠のこころ

惻隠(そくいん)とは相手を思いやるこころ、他人の立場を理解して心を痛めることを言うようだが、せちがらい世の中や、勝負の世界で実行することは難しい。敵国に塩を送った上杉謙信、敗軍の将を逃した源義家が武士として賞賛されるゆえんである。しかし日常生活やゴルフでエチケットといわれるものは、実はみな惻隠の心からうまれている。日常生活の場合は携帯マナーモード、歩行禁煙、整列乗車、警笛自粛、立小便無用等々。ゴルフの場合なら「ティーインググランドで素振りをしない」「他人がショットするときには静粛にする」「バンカーショットの跡はならして出る」「ボールマークやスパイク跡を直す」「他人のパットラインを踏まず影を落とさない」「来た時よりも帰る時をきれいにして立ち去る」みな他のプレーヤーやコースに対する惻隠のこころだ。武士は生死をかけた戦場で惻隠のこころを持てた。現代人は日常生活で惻隠のこころを失った。なぜか。理由は簡単である。現代人は惻隠のこころを育てられていないからである。人間は本来生まれながらにして、惻隠などという高度な精神文化は持ち合わせていない。後天的に育まれることによって初めてこころに宿り成長するものである。それが証拠に、どんな人格者といえどもゴルフ初心者であれば、コース上のエチケットなど守れるはずがない。氏、素性、学歴、地位、人格まったく関係なく本能の赴くままに振舞うことは目に見えている。私達はよく子供や若者に向かって「少しは他人のことを考えろ」と小言を言うが、実は私たち大人も、本来何も考えていないし何も分かってはいないのである。アリストテレスが最初に「人間は社会的動物である」と定義したそうだが、私たち人間だって産まれたときは他の動物と何ら変わることがなく、最初から倫理道徳をわきまえていた訳ではない。全て社会訓練を受けたことしかできはしないのである。そして大方は大したこともできずに一生を終わる。聖書は言う「義人はいない。一人もいない」と。だからこそ新渡戸は胸を張って武士道を語るのである。日本には何百年に渡って不文律として伝わった倫理道徳規範としての武士道があり、それは騎士道にも劣らぬ高邁な思想であると。しかし新渡戸稲造が英語で『Bushido』を著してから100年以上過ぎた。いまの日本に日本人の心に、どれだけ武士道精神は残っているだろうか。戦後日本で思想教育はタブーとされてきた。戦後憲法は宗教思想の自由を保障したが、教育の場に導入することは政策的に避けてきた。私達は戦後教育の中で宗教思想について何も習ってはいないし、倫理道徳について如何なる教育も訓練も受けていない。受けたとしてもせいぜい「ハイといって返事をせよ」「遅刻はするな」「授業中は静かにせよ。ただし眠るな」「暴力はよせ」程度のものだ。日常事件を見るたびに、ひょっとすると猿社会の方が、もう少しましな道徳教育をしているかもしれないと思うことがある。
「武士道ゴルフ」を提起し、日本人の精神基盤を再生する手段としてゴルフを嗜むとすればグローバル化した大和魂が復活し、言葉は話せなくとも世界中に信頼できる友をつくることができるではないか。今や剣の道を極める時代ではなく、ゴルフの道を究めるときである。昔も邪剣であってはならなかったように、いまも邪道であってはならない。その人の品格や人柄を偲ばせるものでありたい。ゴルフはその格好のトレーニング手段として確立されているがゆえに、倫理道徳規範を失った現代日本社会に「神聖ゴルフ武士道」を広める価値があると思うのである。

寛容なこころ

新渡戸は著書『武士道』のなかで「愛、寛容、慈悲、憐憫は古来、至高の徳として人間の魂がもつあらゆる性質の中で最も気高く、王者にふさわしい徳目である。」と述べている。
『聖書』は「愛は寛容であり親切です。人を妬まず、自慢せず、高慢にならず、一番優れているのは愛です。愛のないものに神は解りません。神は愛そのものだからです。」といって愛と寛容を一体とみなし、至高のものとして新渡戸の言葉を裏付けている。
寛容とは他人の失敗や過ちを咎めることなく許すことであるが、ゴルフの世界では自己責任ゲームであるがために、失敗や過ちの責任は全てプレーヤー自身がスコアで負うことになっている。そのために失敗や過ちは喜ばれることはあっても咎められることはまずない。
勝負している場合はなおさら、相手の失敗は自分の得となるからである。他人の不幸を喜んで顰蹙を買い、自らの品格を問われて友を失った者も多いことも銘記すべきである。
寛容を必要とするのはプレーではなく、むしろエチケットやルールに対してである。ことエチケットやルールになると、己に甘く他人に厳しい人は実に多い。ルールブックをポケットに忍ばせて、マーシャルを任命されたような顔つきで、他のプレーヤーに付きまとう輩はどこのクラブにも必ずいる。他人の一挙一動を批評し、噂の種として世間にばらまく輩もいる。ゴルフは大人になってから始めたり、社会的地位ができてから始めるケースが多いだけに、惻隠や寛容のこころが求められる。小笠原流の師範だって、千家の家元だってゴルフの入門者ならコースに行って何をするか分からない。いや、どうすればよいか分からないのだ。女性や高齢者、初心者のプレーが遅いからといって、一緒にプレーすることを嫌がったり、文句を言うことは基本的にゴルフの精神に反することも銘記すべきである。
大切なことは、ゴルフのエチケットやルールは、教条的に暗記して他人を裁くためにあるのではなく、自らを裁くためにあるということだ。ひとを裁くものは神に裁かれる。以前米国NGFではスロープレー撲滅キャンペーンを張っていたとき、同時に次のようなスローガンも掲げていた「はじめは私もビギナーだった。-ジャック・ニクラウス-」。ゴルフの基本精神は惻隠のこころ、寛容のこころを忘れてはならないのである。