- 神 聖 ゴ ル フ 武 士 道 -
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
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刀について
新渡戸は「刀は武士の魂や身分の象徴」と断言するが、日本の男の子の多くは刀に憧れを持って成長する。私は5歳のときにベルト式のズボンを履きたかった記憶があるが、それはおしゃれの意味ではなく、ゴム紐パンツではどうにも腰に刀が差せないからであった。縁日やお祭りで買ってくれるおもちゃの刀だけでなく、ふだん竹の棒や傘を腰に差すにもゴム紐パンツではどうにもならず、半べそをかいて母にベルトズボンをねだったことを覚えている。腰に何も差さずに歩くことは、勇気の減退や臆病風に吹かれる原因になることを知っていたから、心底からベルトズボンが欲しかった。欲しがればすぐ買い与えられる時代ではないから暫らくの間、帯にもタスキにも長い姉の腰紐を巻きつけられて、幼心に男子の誇りを痛く傷つけられたことも記憶している。『武士道』に「サムライの子は、ごく幼い頃から刀を振ることを習った。五歳になると武士の正装を身に付けさせられ、碁盤の上に立たされて、それまで遊んでいた玩具の代わりに本物の刀を差すことを許された。これでサムライの仲間入りが認められたのだ。この日はその子の忘れえぬ記念日となった。」と書かれている。部門入りの儀式の後は、サムライのしるしである刀を携えることなく外出することはなかったという。しかしなぜ子供に脇差が与えられたかというと、脇差は人を殺傷する武器ではなく、武士の名誉を守る切腹用の刀だったからのようだ。だから武家の女子も幼い頃から懐剣を持たされ、万一辱めを受けるようなことがあれば、懐剣で自らの命を絶って武家の名誉を守れと教育されていた。このように刀、特に小刀は武家やサムライの名誉や魂を象徴する道具であって、決して武器ではなかったところに武士道の本質がある。日本人が刀に抱く思いには歴史的背景や伝統精神が吹き込まれており、新渡戸は「刀鍛冶は単なる職人ではなく霊感を受けた芸術家であり、その仕事場は聖なる場所であった。彼らは毎日神仏に祈り、身を清めて仕事にかかった。日本の刀剣が鬼気迫る魔力を帯びるのは、この刀鍛冶の霊魂が吹き込まれたか、それとも彼が祈った神仏の霊気が宿ったからである。」といっている。私ごとき平民には武門の伝えも伝家の宝刀もないから、刀について何も語ることはできないが、国立博物館や靖国神社で見た刀剣の美しさは日本の伝統芸術品として世界に誇れるものと思う。敗戦後、随分多くの名刀が米国に持ち去られたというが、日本の刀剣が芸術品として評価されているならば、それはそれで日本文化の紹介に役立ち武士道の普及に貢献することになろう。
刀剣が武士の魂を象徴していたことは日本人なら誰もが知っているし、その心も多くの人が理解している。そもそも日本人は自分の使う道具に魂を込めることが好きなようで、板前の包丁、大工のカンナ、茶人の茶器、釣り人の釣竿などいろいろな分野で見ることができる。もっとも音楽家が楽器に示す執念は、世界中どこへ行っても凄まじいものがあるし、野球選手でもバットやグローブに相当のこだわりを持っているようだ。アメリカ人が銃に対して抱く思いは、私たち日本人がとうてい考え及ぶところではなく、そこに西部開拓の魂やフロンティア精神を窺うことができる。そのように考えると民族や人種に関係なく、道具に対するこだわりや魂の移入は何処にでもあることで、刀剣に対する特別な感情だけを日本固有の文化ということはできないのかもしれない。
クラブについて
ゴルフの道具となるクラブに対する思い入れにも相当深いものがある。『名器の系譜』著者の上野喜久男氏に話を伺うと、その思い入れの深さに唖然とするばかりで、恐れ多くて多くを訊ねることすらできなくなる。日本刀を打つ刀鍛冶職人と同じで、一本一本のクラブにクラフトマンの霊魂が注ぎ込まれているのであろう。その一本一本は道具を超えて芸術品の域に達しており、まさに鬼気迫るものがあって、この時代のクラブはプレーヤー自身が生涯の伴侶として自分の分身となるまで調整し使い込んだから、他人がちょっと触っただけでも咎められるほどであった。その意味で刀剣が武士の魂であったと同様、クラブはゴルファーの魂であったということができるが、残念ながらそれは1970年代までの話である。80年代以降はゴルフの産業化が進み、米国では企業買収によって名門クラブメーカーが次々と買収され、伝統のクラブが規格大量生産によってブランド商品化されて市場に送り出されていった。日本では新興クラブメーカーが、規格大量生産なら米国に負けじとばかりに新素材や新技術を導入して激しい競争を挑んだ結果、ものづくり大国の本領を発揮して米国市場をも席巻してしまったのである。いま大量生産されている新型クラブの何処にクラフトマンの魂が注ぎ込まれているか問われたら、何も答えられない。展示試打会や通信販売で衝動買いするクラブを、生涯の伴侶とするような律儀なプレーヤーが何処にいるか問われても声が出ない。ゴルファーの心から神聖なる騎士道精神が消滅していったように、クラブに宿していたクラフトマンの魂も失われていったことは事実だ。現代社会にとっては、刀剣や銃が危険極まりない犯罪用具となってしまったように、職人が丹精込めて作り上げた道具も、いまや収集家以外の誰も関心を示さない粗大ゴミになってしまったのも事実のようだ。無味乾燥な合理主義や実利主義が支配する時代にあっては、人の心に魂が復活することがあったとしても、道具に魂が宿ることがありうるのだろうか。
クラブが規格大量商品化したことは、近代ゴルフの確立や技術の進歩に大きな貢献をすることになった。クラブは道具として徹底的に機能を追及し、科学的進歩を遂げていったから、機能的には素晴らしい進化を見た。道具としてのクラブ機能に対する信頼性は絶大なものとなり、揺るぎないものになった反面、人間の肉体的・精神的機能の脆弱性が問われるようになった。文明や科学の進歩に伴って、肉体や精神の退化が顕著になってきたのではないかという人類の不安は、益々もって現実味を帯びてきている。
科学について
武士道の探求は精神科学の領域に属し、刀剣やクラブの探求は物理科学の領域に属するはずで、それがなぜ同次元で語られるのか少々不思議に思えるが、日々の営みの中で道具を使う動物は人間だけであることを考えれば、全く分からないこともない。道具はあくまでも無機質な存在であるが、その道具を使う人間が限りなく有機質な存在であるがために、精神や霊魂が道具に乗り移って人格化されるからだろう。序章で日本人の魂は何処にあるか分からないと書いたが、刀剣に武士道精神が宿るかどうか甚だ疑問だし、クラブにゴルフマインドが宿るかも疑問である。つまり道具は何処まで行っても道具であって、如何なる名刀も使い手によって邪剣に変わるし、聖人ボビー・ジョーンズの使用クラブも、私が使えば唯の旧式クラブに過ぎない。武士道のような高度精神文化は思想として数百年にわたり後世に伝わっていくが、神社仏閣、絵画仏像、甲冑刀剣のような物質文化は古美術品として戦災天災に会うまでの存在でしかありえない。精神文化には風雪に堪える悠久感が漂うが、物質文化にはどこか儚い無常観が漂うのはなぜだろう。幕末や終戦の舞台となった江戸城(皇居)を巡る歴史には人々の熱い想いが秘められていて、語りつくせぬ悠久感を覚えるけれど、ひとたび遺跡として眺めると、幕末によらず東京空襲によらず集中砲火を浴びて落城せずに済んでよかったと安堵するばかりだ。
いま多くのゴルファーにとってゴルフをする楽しみと、最新式のクラブを使う楽しみのどちらに比重がかかっているのだろうか。「ゴルフをするためにクラブを使うのか、クラブを使うためにゴルフをするのか」と問えば妙な言いがかりに聞こえるかもしれないが、とても大切なことなので是非考えてみたい。それ程に今は道具について語られることが多く、ゴルフについて語られることが少なくなったようだから、あらためて日本人のアイデンティティを含めて考え直してみたいと思うのである。
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