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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第6章 礼儀と作法

礼儀について

若い人達同様、私自身も礼儀や作法の心得がない。私が若いとき浅見録蔵師匠の礼儀正しさに感銘を受けたことを書いたが、私には礼儀や作法についていまだ何も語る資格はない。新渡戸稲造は「日本人の美しき礼儀の良さは、外国人旅行者の誰もが認めるところだが、礼とは人を思いやる心が外へ表れたものでなければ、それは貧弱な徳といわねばならない。」と述べているし、孔子の言葉を借りて「うわべだけの作法が礼儀ではないことは、音が音楽と同一ではないのと同じだ。」として心が籠っていなければ礼とはいえないという。武道は礼に始まって礼に終わるという。講道館では入館するに一礼し、道場に入るに一礼し、稽古を始めるに一礼し、稽古が終わってまた一礼させられた。高校時代は剣道場に入るにも弓道場に入るにも、一礼を忘れると問答無用で拳骨をもらった。考えてみれば武道はもともと殺人の稽古に他ならない。柔道は敵を組み伏せて首を取る稽古。剣道は敵を切り殺す稽古。弓道は敵を射殺す稽古。礼を重んじ儀を正さなければ危険極まりない殺人鬼の養成と化してしまうことになる。新渡戸が武人であった話はどこからも伝わってこないし、あくまでも武士道精神を持った文人として世界に誇る日本人である。だから武士道と武道を混同したり同一視することは間違いで、武士道と聞くとすぐ軍国主義を連想するのと同じくらい短絡的で誤った発想である。軍人は古今東西どこに行っても礼儀正しい。本当に礼儀正しいのかといわれたら、ほとんど職務上そうしているだけともいえるが、こういう行為を偽礼とも虚礼とも表現して嫌悪する人もいる。新渡戸は「とくに礼は武人特有のものと賞賛され、本来の価値以上に尊重されているが、それゆえに偽物が生じているようにも思われる。」と述べている。日本人から見ると、軍人以外のアメリカ人に礼儀正しい人はほとんどいない。聖書に「人はうわべを見るが、神はこころを見る。」と書かれているように、プロテスタントは儀礼的な行為を好まない。それゆえ形式主義を嫌って実質主義を好むから、普通の日本人には雑に見えてデリカシーに欠けると思えるが、本心は日本人よりお人好しが多い。気を使って丁寧なメールを送ったのに、「OK」なんて木で鼻をかんだような返事をもらうと本当にがっかりするが、それが彼らにとって親しい仲の礼儀のようだし、相手に気を使わせない心遣いのようだ。わざわざ綺麗な包装紙を買って丁寧にラッピングしたプレゼントを、目の前でビリビリにやぶかれて腰を抜かした日本人は多かろう。それが彼らの礼儀だと聞かされても、納得するのに時間が掛かる。反対に日本人は、もらったプレゼントを開封せずに大事に持ち帰ろうとするが、わざわざ追いかけてきて怪訝な顔で「なぜ開けてみないの?」と問いただされる。彼らにとって礼を欠いた行為に見えるのだろう。このように礼儀はその世界やその社会に特有なシキタリとして、お互いに理解を超えたものが多いから、自分の流儀を強要し他人の流儀を批判するのはむしろ慎むべきだろう。ここでは惻隠(そくいん)や寛容の精神を優先させることが武士道精神といえよう。
ゴルフの世界ではエチケットマナーと称して礼儀をやかましく言う人が多い。しかしそのほとんどが他人批判型で、実質意味のあるものは案外少ないのには驚かされる。とくに服装に関してはナンセンスと思えるものもある。フロントでブレザー着用を強要する。夏のリゾートコースで長ズボンやハイソックスを強要する。襟の有無やスカート丈を咎めるなどは理由や根拠に乏しいし、世界中でお目にかかったことがない。日本固有の、あるいはそのクラブ独自の取り決めといわれればそれまでだが、無礼極まりない事例が他に数多くあるだけに納得いかないことが多い。
礼儀とはエチケットのことであり、他人に対する思いやりや心遣いのことである。他人に付きまとって「礼儀をわきまえよ。」とか「エチケットがなってない。」と嫌味を言う人こそ武士道を学んで欲しい。ゴルフのエチケットとはゴルフ規則第一章に書いてある如く他のプレーヤーに対する思いやり、コースの保護、危険の防止をいう。人の迷惑にならぬよう配慮し、コースを傷めぬよう慎重に、事故が起きぬよう安全にプレーしてくださいということで、具体的に何をどのようにすればよいか指示はない。だからエチケットは大人にとっても厄介な問題だ。

作法について

礼儀にかなった作法、つまりエチケットに叶った具体的なマナーは教えて貰わなければ誰もわからない。教えてもらえば大人ならすぐわかる。知ってしまえば知らなかった自分が恥ずかしくなる。そのようなことを日本語で礼儀作法といい英語でエチケットマナーというだけだ。新渡戸は『武士道』で次のように述べている。「優美さが無駄を省いた作法という言葉が真実なら、優美な立ち居振る舞いのあくなき練習は、論理的にいえば内なる余力を蓄えることに繋がる。従って洗練された作法というものは無限なる力を意味する。」
この言葉に添ってゴルファーの姿を描いてみると、スタートの呼び出しがあって1番ティーインググランドに4人のプレーヤーが集まる。お互いに名乗りあって挨拶を交わし、打順を確認する。打順が決まっていなければティーを投げて打順を決め、お互いに使用ボールを確認しあう。1番打者は速やかにボールをティーアップし、目標と安全を確認する。軽く一、二回素振りしてターゲットを定め、静かにセットアップして迷うことなくピシッとショットする。打ち終わったらボールの行方を確認し、四の五の言わず速やかに次の打者にティーインググランドを明け渡し、次の打者が落ち着いてショットできる環境と雰囲気を整える。この一連の振る舞いは優美にして周囲のものにも安心感を与える。一見どうということはないが、この一連の変わらぬ立ち居振る舞いが洗練された作法であり、無限なる力を意味することではないのか。落ち着きは自信の裏付けであり冷静な判断の源となる。礼儀や作法は形式的な振る舞いではなく、実質的な力の根源である。と新渡戸はいう。
「優美さが無駄を省いた作法」という言葉の意味について考えると、逆を想定すればすぐわかる。スタート時間が来ても全員揃わない。挨拶しないので名前がわからない。誰もティーアップしないので後ろの組に催促される。催促されて慌ててじゃんけんするが、そんなときに限ってなかなか勝負がつかない。やっと決まった一番打者は、また慌ててボールとティーを取りにいって、いろいろ言い訳をしながら素振り練習を始める。やっとティーアップしてアドレスしようとしたらボールがティーから落ちてしまう。また言い訳しながらティーアップし直す。今度はボールが落ちないうちにと急いで打って、飛んだボールは5メートル。この様子をじっと見ていた後続組は、今日一日が案じられて暗い気分に襲われる。この一連の立ち居振る舞いに「優美も作法もない全く無駄な動き」を感じずにはいられまい。立ち居振る舞いや動作にはリズムというものがあって、ゴルフではセットアップリズムやスイングリズムという大切なリズムがある。達人やプロにはその人のリズムができていて、ショットの準備を始めるときからショットするまでのアドレスルーティーンにも、スイングそのものにも何度繰り返しても変わらない不変性と一貫性がある。ミスしたときや調子の悪いときは必ずリズムが狂っている。それも本人が気付かない微妙な狂いで、そのプレーヤーをよく知っている人か、その人の専属コーチにしかわからない。達人の域に達していない人には、この一定のリズムがない。
一般に社交によらず武芸によらず、礼儀作法といわれるものには歴史や伝統に支えられた深い意義がある。新渡戸は次の例を挙げて説明する。『小笠原宗家・清務(せいむ)の言葉によれば「礼道の要諦はこころを陶冶することにある。礼をもって端座すれば、狂人剣を取って向かうとも害を加うること能わず。」つまり、正しい作法を絶えず訓練することによって、身体のあらゆる器官と機能に完全な秩序をもたらし、肉体と環境を調和させることによって精神の支配を行うことができる。』さらに茶の湯を例に挙げて『茶の湯の基本である心の平静さ、感情の静謐さ、立ち居振る舞いの落ち着きと優雅さは、正しき思索とまっとうな感情の第一要件である。茶の湯が戦乱や戦闘の噂がたえなかった時代に、ひとりの瞑想的な隠遁者・千利休によって考案されたという事実が、この作法が遊戯以上のものであることを証明している。だから、茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術であり、折り目正しい動作をリズムとする詩であり、精神修養の実践方式なのである。』と。
日本の伝統的技芸は基本の型を作法として指導する。基本の型は入門者の習うべき型であり熟練者が反復練習する型でもある。そしてそれは名人や達人が到達した極意でもある。
ゴルフもマナーだけでなく基本フォームがある。基本フォームは多くの達人プロたちが極めた技術の共通原則を普遍化したものであって、それ以外の方法によるならば何倍もの回り道をするか、中途挫折を覚悟しなければならない。いろいろな説や考えは取捨選択されて整理され、誰にでも適用できるものだけが基本セオリーとなる。基本セオリーは万人普遍の生体原理や宇宙普遍の物理法則によって裏付けされるものだから、逆らえば本人が苦労する。この基本セオリーに裏付けされたメソッド・方法だけが基本フォームとなる。故に礼儀や作法の基本には、先人たちの美徳や叡知が詰まっていると考えて大切にしたい。