- 神 聖 ゴ ル フ 武 士 道 -
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
武士の名誉
武士にとって名誉とは何かについて新渡戸稲造は「武士階級の特権や義務つまり武士であることそのもの」の如く説明している。だから「武士の面目にかけて」とか「武士の恥」と言うように自分が武士であることを名誉に思っていたと考えられる。反対に武士にふさわしくないことは恥として、名誉を回復するためには命を捨てる覚悟ができていたものとも思われる。武士階級というものはそれほどまでに名誉あるものだったのか、私たち四民平等・民主社会に育ったものには理解しがたいが、この恥の感覚について新渡戸は『この恥の感覚、すなわち廉恥心はサムライが少年時代から最初に教えられる徳のひとつであった。「笑われるぞ」「名を汚すな」「恥ずかしくないか」と言った言葉は過ちを犯した少年の振る舞いを正す最後の訴えであった。』と説明する。武士が命に懸けて守ろうとするこの名誉は武家としての家柄を尊ぶ家族意識と密接に結びついていて、強い連帯意識となっていたようだ。藤沢修平作『武士の一分』(ぶしのいちぶん)や『拝領妻』(はいりょうつま)では、平凡なサムライが妻の名誉を守るために命を捨てる姿が描かれているが、果たしてそこまでの家族意識があったものか私たちにはわからない。現代の価値観で判断すれば、愛妻の名誉回復のために命懸けの真剣勝負をするなど世界の女性から垂涎の的になりそうな話だが、夫婦の絆が薄れ離婚が増えた現代世相に痛烈な一石を投ずる意味では痛快だ。新渡戸はこのようにも説明する「名誉は例えそれがただの見栄や世間の評判に過ぎないものでも、この世の最高の善として尊ばれた。それゆえにサムライの若者にとって追求しなければならない目標は、知識や富ではなく名誉を得る事だった。」更にこの名誉を得るためならば親子の縁を断ってでも貧困や艱難辛苦に耐えたという。この名誉のためならば、サムライにとって命は安いもので、いつでも一命を捨てる覚悟はできていたと言うのである。そして究極の武士の名誉とは「忠義の名声」であったという。忠義こそ封建制度を支える礎石であったことを思えば当然かもしれない。近年、武士の忠義を示して世界を驚かせたのは小野田寛郎陸軍少尉だ。終戦から約30年、最後の一兵となりながら忠実に命令を守って諜報活動と戦闘を続け、友軍の来援を信じ疑わなかった軍人の姿に真の武士道精神を感じないわけにはいかない。是非論評はどうでも良い。武士道とはこういうもので私たち日本人にはそのようなDNAが潜在していることを証明してくれただけで声も出ない。小野田少尉が上官の命令で武装解除したときの光景は生涯忘れまい。ボロボロの軍服姿に毅然とした態度で、包帯だらけの軍刀を差し出して敬礼する小野田少尉の表情には敗残兵の影など微塵もなく、凱旋将軍マッカーサー元帥より遥かに輝かしかった。30年間信念を持って戦い続けたサムライだけが持つ顔だった。小野田少尉にとって投降することは不忠を意味し、武士の名誉にかけて許せないことであったに違いない。だから誰が何度説得しようと断じて投降勧告には応じず、自分に命令を下した上官の武装解除命令にだけ従ったのである。30年間闘い続けたのは武士としての自尊であり、最後まで投降を拒んだのは武士としての名誉であった。
ゴルファーの名誉
まずゴルファーにとって不名誉とは何かを考えると「スコアをごまかした。違反を申告しなかった」と揶揄されることだろう。これは競技失格に留まらず、永久に人間失格の烙印を押されることであり、容易に名誉回復することができない。ゴルファーの名誉とは不正をしないことでありスコアをごまかさないことである。この二点を疑われることほどゴルファーにとって心外なことはない。自己審判ゲームだけに、この点を疑われると弁解も立証もできないから、疑わしい場合は先に自ら罰しておかなければ名誉を守れない。他人から指摘されて非を認めたのでは、名誉回復どころか一生の恥となる。自己審判制度の下で正々堂々と闘うことは、常にわが身の潔白を証明しなければならないのである。ゴルフというスポーツゲームが基本的にキリスト教国で盛んになった理由は、神の審判の下で行われなければ、ゲームそのものが成り立たないからである。キリスト者にとって個人の名誉はどうでも良い。キリストによって罪許されたものが、再び神の前に偽りを言って罪を犯すが如きは、とても恐ろしくてできることではない。キリスト者の罪の意識は、約束された永遠の命にかかわることだから、敢えて詮索したり疑ったりする必要は無い。本人と神との契約事項で、とうてい第三者が立ち入ることのできない領域なのである。キリスト者の罪の意識は、仏教徒や無神論者の想像を絶する世界で、恥だの外聞だの嘘も方便だのと言っているものの名誉なんぞ屁のツッパリにもならない。神の前に自らの傲慢を悔い改めたキリスト者にとって、名誉だの自尊だのは全く無用の長物で思い出したくもないものなのである。従ってゴルフがキリスト文化に基盤を置く限り、正直、誠実、謙虚、寛容であることがゴルファーの名誉であり自尊であると言って差し支えないだろう。
ボビー・ジョーンズが、アドレスしてボールが僅かに動いたことを申告して全米オープン優勝を逸したとき、記者たちに賛辞を送られて憤慨したのは、彼が敬虔なキリスト信仰者だったからである。あえて言えば、彼にとって正直に申告したのは自尊であり、優勝を逸したことが名誉であった。