- 神 聖 ゴ ル フ 武 士 道 -
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第17章 ゴルフ武士道の影響 | << | 終 章 |
騎士道精神と武士道精神
2010年は仰天のうちに幕開けした。前年度世界1位にランクされたタイガー・ウッズは不倫問題が発覚して休業を余儀なくされ、筆頭横綱の朝青龍は不品行が問われて引退を余儀なくされた。両者とも王者としての品格が問われ、その地位にふさわしい責任を取らされたものと思われる。ゴルフの世界も相撲の世界も品位や品格を大切にしていることに変わりないが、その背景にある伝統思想が二人の王者を許さなかったのだろう。タイガー・ウッズはゴルフの根底にある騎士道精神を理解していなかったようだし、朝青龍は相撲の根底にある武士道精神を理解していなかったに違いない。ゴルフも相撲も長い歴史と伝統を有するだけに、その時代風潮に流されない確固たる思想や理念に支えられている。タイガー・ウッズがアメリカで生まれ育ったからといって、果たしてキリスト教プロテスタンティズムや騎士道精神を理解していたか疑問である。アジア・アフリカの混血として生まれたウッズは明らかに異教徒であり異民族であって、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の伝統であるゴルフ文化を理解していなかったとしても不思議ではない。朝青龍にしても同様で、モンゴルで生まれ育った生粋のモンゴル人が相撲界を代表する横綱になったからといって、日本神道の思想や武士道精神を理解できなくても不思議ではない。相撲協会の役員や親方衆だって何処まで理解しているか甚だ疑問である。伝統や思想は守るものでもあり破られるものでもあるとすれば、ゴルフや相撲と同じようにどちらが勝つか見守るより手がない。ゴルフも相撲もグローバル化の波が押し寄せて国際試合の様相を示してきたから、見るものにとってはおもしろい。思想や伝統もグローバル化の中で、個人個人の選択に委ねられてきたと考えられるが、歴史の目で見たときに果たしてそれで良いかどうかは解らない。しかし言えることは、大衆の見世物興行として成り立っているプロスポーツの世界で、大衆の支持を失ったものが大衆に見捨てられたからといって、誰も文句が言えないことだけは確かだ。負けた方が顔を洗って出直すしかあるまい。
思想や伝統
思想にしろ伝統にしろ風雪に耐えて残った文化には、それなりの大きな価値があるはずで、気まぐれな大衆心理や時代の風潮に流されては人間や社会の向上は望めない。人間が社会的環境の動物であるとするならば、青少年はじめ次世代を担う人たちにより良い環境を残そうとする努力は、ひとりひとりが忘れてはならない責任ではないのか。結婚して家庭を持ったら、生まれてくる子供のためにより良い環境をつくろうとする努力は、全ての生き物が営々として続けてきた営みに過ぎない。多くの家庭が集合してコミュニティを形成し、その社会をより良い環境にしようとする努力が継続したとき、ひとつの文化ができてそこに思想や伝統が生まれ育つのであろう。だから思想や伝統は常に外来者や異民族に荒らされる危険が伴い、その風雪に耐えきれないものは消滅していく。そう考えると風雪に耐えて何百年・何千年と伝わってきた思想や伝統は、それだけでも守る価値があると思うのは多くの人の考えだろう。 後世のためにより良い環境を残そうとする努力や、風雪に耐えた思想や伝統を守ろうとする努力を地球規模で行うことがグローバル化の意味ならば、それに反対する理由を見つけるほうが難しい。WASPも日本人も地球規模で見れば少数民族だから、お互いに伝統思想や文化を大切にしないと滅亡する危険がある。コンピュータの発達やインターネット社会の出現によって人種国籍の壁が崩壊し、グローバル化が進むことは避けられない。だからといって地域文化や伝統思想をひとつの基準によるグローバルスタンダードで統一することは最初から無理がある。そんなことをすれば争いのもとになるどころか、またしても地球規模の大戦争になるだろう。言葉ひとつとっても統一言語にすることは永遠の理想だろうし、右側通行と左側通行をどちらかに統一することも永久に不可能だろう。西洋思想も東洋思想も両極に対峙するから両者とも光るのであって、必ずしも足して二で割ったら良くなる訳ではない。グローバリゼーションとは地球規模でより良い環境をつくり、地域や少数民族に育てられた思想や文化を地球規模で守ろうとすることならば、地域環境や民族文化をお互いに大切にすることと相反しない。昔から「郷に入っては郷に従え Do like Romans do when you are in Rome.」という諺があったとおり、お互いの風俗習慣を尊重する立場から出発しないとグローバリゼーションは裏目に出るのではないか。かつてエリザベス女王が宮中訪問されたとき靴を脱いで宮中に上がられたし、オバマ大統領が天皇陛下と会見されたとき握手をしながら日本式に丁重なお辞儀をされた。まさに郷に入って郷に従った二人の姿勢は見事なもので、問題にして騒いだマスコミの方が問題だ。タイガー・ウッズも朝青龍もこの程度の配慮があればきっと歴史に残る帝王・横綱になれたものを。
伝統思想の存続
400年前に野心家のセルバンテスは祖国スペインに騎士道が失われたことを嘆き、皮肉を込めたパロディーとして『ドン・キホーテ』を書いた。それから200年後に純粋で多感なドイツ人ゲーテは『ドン・キホーテ』を読んで笑うどころか泣いたというが、騎士道は既に戯曲の対象にしかなり得ないほど忘れ去られていたからだろう。騎士道を貫けば世間の笑い者になり変人扱いされる時代風潮をセルバンテスは滑稽な戯曲として表現し、ゲーテはドン・キホーテのようになれない自分を悲しんで泣いたのかもしれない。100年前に新渡戸稲造は、果たして武士道はこのまま存続できるか心配して『武士道』を書いた。それを読んだルーズベルトは武士道に魅せられ感動したが、まさか自分がアメリカ大統領として武士道と戦うことになろうとは夢にも思わなかったはずだ。騎士道も武士道もその起源から生成過程に似通ったところがあるが、滅びそうで滅びないところも似ている。忘れられることはあっても消滅しないのは、根底に生命や魂が存在するからではないだろうか。『聖書』といい『ドン・キホーテ』といいほぼ同時期の17世紀初頭に出版され、以来ずっとベストセラーを争ってきたには理由があるはずで、言葉の中に思想や理念があり生命や魂が存在するからではないだろうか。それゆえに読む人の魂に語りかけ、命の水のように心に染渡るのではないかと思えるのである。
800年前に作者不明とされる『平家物語』が書かれたが、そこには平家滅亡を通して世の無常と武士の情が切々と語られているために、聞くも語るも涙の物語となって今日に伝わっている。それは『源氏物語』と並んで日本の古典文学として世界的に高く評価されているものであるが、凄いところは琵琶法師によって語られ、能楽として戯曲化され、武士道として思想化されて日本人の魂を形成してきたことである。100年前に書かれた新渡戸稲造の『武士道』は解説書や評論の類で文学とまではいえないものの、多くの外国語に翻訳されて世界中の人々に読まれている点は凄い。私自身『平家物語』以上に『武士道』の方に強い影響を受けたことは事実であるが、それはきっと『武士道』には新渡戸稲造のプロテスタント思想が吹き込まれたことによるのではないかと考えている。
騎士道Vs.武士道
騎士道と武士道の生い立ちを見ると騎士道は西洋人の、武士道は日本人の魂を創ってきたことに気が付くが、20世紀になってなぜ西洋と日本が激しく武力衝突することになったのか考えると、案外と騎士道と武士道は対決する運命にあったのかもしれない。最後の戦いとなった太平洋戦争は武士道が敗れたが、だからといって1000年以上の歴史と伝統を持つ武士道がそう簡単に消滅するはずがない。占領政策として武士道を危険な軍国主義の象徴とみなして学校教育から一切排除しようとし、左翼思想家は武士道を目の仇にして攻撃したが、その命まで絶つことはできなかった。武士道は原爆や左翼思想ごときに息の根を止められるほどヤワな存在ではない。本人が意識するかは別として、日本人の魂に刻み込まれたDNAは、そう簡単に組み替えることができないのである。それが証拠に最近は平成生まれの、それも若い女性の魂に武士道が復活してきていると聞く。序章で「武士道は大和ナデシコによって語り継がれた口伝か」と述べたが、案外的外れではないかもしれない。武士道の系譜を裏側から覗くと義朝・清盛の陰に常盤あり、頼朝の陰に政子あり、秀吉・家康の陰にねねあり、龍馬の陰に乙女あり、隆盛・海舟の陰に篤姫がいる。だから大和魂は平成生まれの女性によって復活しても何らおかしくない。平成生まれの女性が産んだ男の子は、きっと逞しいサムライに育てられるに違いないが、21世紀はアジアの時代グローバル世界である。大和魂で武装した若きサムライ達が世界に飛び出してどんな戦いをするのか楽しみだが、決してミサイルや原爆を使った戦いであってはならない。知恵と技術を使った平和の戦い・正義の闘いでなくてはならない。騎士道が正義と寛容を以って戦うなら、武士道は信義と惻隠を以って応じようではないか。二度と人種差別や植民地支配が如き人道にもとる戦いをしてはならない。強欲な拝金主義や金融支配を掲げてもならない。そのようなことがあれば武士道は全世界が相手になろうが、必ずや再び一身を顧みず立ちはだかることになろう。騎士道対武士道の平和の戦い・正義の闘いに使用される武器は、ミサイルや原爆ではなくゴルフクラブとゴルフボールでなければならない。
グローバル世界の条件
21世紀の世界は国境も国籍も越えていたるところに多民族多国籍社会が出現する。グローバル世界とは宗教・言語・習慣を越えて融合しなければ共存できない社会のことで、決して統一基準に従う全体主義社会のことではない。グローバルスタンダードとは世界標準であって、絶対基準でもなければ最高基準でもない。つまりいろいろな基準がある中で、ひとつ共通基準を決めることで他の基準の特性や個性を明確にする意味がある。例えば英語を世界標準語にすれば日本人・韓国人・中国人・ドイツ人が一緒にゴルフをする場合も4人が英語で話せば、4人とも4ヶ国語を話す必要は無い。それぞれの母国語を尊重し、それぞれの言語で表現される文化や価値観を相互に大切にできる。日本文化は英語にしようが中国語にしようがドイツ語にしようが、他の言語で本当の意味は表現できない。それはまた逆も然りで本来無理なことだから比較し優劣を競う必要は無い。それはグローバル世界の常識であり最初の共通基準である。デモクラシーが最高とは思わないが、少なくとも間違った全体主義や絶対主義よりは大分ましなことは多くの人が認めるところだ。人はとかく自分が慣れ親しんだものが最高と思い勝ちだが、それはその人にとって最高ということで万人にとって最高であるはずがない。食事は箸かスプーンかフォークか、米かパンか麺か、和食か洋食か中華か。生活は市街か海岸か山林か、日本か東洋か西欧か、質素か平均か贅沢か。仕事は農業か商業か専門か、肉体か知識か技術か、自由か安定か地位か。と私たちは実に多彩な選択肢の中で生きている。これらの選択肢は歴史から見ればごく最近得られたものばかりだが、それは信条、思想、宗教、体制に至るまで誰にとっても最高と断言できるものは何ひとつない社会で生きている。だからグローバル世界の大前提はデモクラシーであって、公序良俗に反しないものは存在が容認され、選択の自由が保証されることによって成り立つ。しかし結果に対する責任はひとりひとりが負わなければならない厳しい社会でもある。安心安全を全て他人や国家に保証してもらおうとする人に限って、自分では何もせず他人批判や政治批判をするが、安心安全が保証される人生も社会もありえない。グローバル化が進んだ世界では何事によらず無限の選択肢の中から自分の責任で選択し、自分の責任で自らマネジメントしなければならない。自分の個性を尊重してもらうには他人の個性を尊重しなければならない。自分の価値観を他人に押し付けるものは、自分も他人の価値観を押し付けられることになる。デモクラシー社会では常にあらゆることが選択可能な条件の下で成立するが、唯ひとつ絶対条件がある。それは「神と神の掟」が存在することを認めてはじめて成立する自由選択性であって、この絶対条件を忘れたらグローバル世界もデモクラシー社会も混乱を極め、やがては神の手によって滅亡するだろう。
民主主義の罠
神の恵みによってこの世に生を受けるものは誕生の時間、状況、状態を選択することだけはできないが、その後は選択の自由が与えられ自己責任によって生きる権利が与えられている。というと耳に優しいが、実は結構これが生きるに厳しい社会なのだ。自由に選択する権利があるといわれれば、誰だって少しでも良いほうを選びたいに決まっている。人には欲望という原罪があって、少しでも良い方から誰よりも良いものへとエスカレートしていく性癖がある。学校に行けない子供は学校に行くことが夢である。学校に行ける子供は少しでも良い学校を選ぶ。権利があれば一番良い学校を選ぶ。近所になければ国内で一番を選ぶ。国内で満足できなければ世界で一番を目指す。一端権利を与えられると人の欲望は留まるところを知らず、結局は自ら無限地獄に転落する。自己責任による選択の自由が与えられた社会には、何処の切り口で見ても現状不満を訴えるもので満ち溢れ、喜びに溢れるものは一人もいない。日本は世界有数の豊かさと平和を誇り、社会秩序と生活保障を維持しながらその反面、自由世界随一の自殺王国であることをどう理解すればよいのか。選択の自由という権利が与えられた途端、人間にとって最大の課題「人は如何に生きるべきか」にぶち当たってしまったようだ。戦勝国による戦後占領政策の長期戦略が日本民族から魂を抜き取ることだったとすれば、西欧圏は民主教育のもとに教育制度から「武士道」を取り除くことであり、共産圏は反軍国主義の名のもとに「武士道」を徹底攻撃することだったようだ。もしそうなら日本民族が精神的に100年立ち直れないようにした戦勝国の長期戦略は見事に成功し、民主主義の罠によって生命力を削がれたかもしれない。
天皇制と武士道
第四の国難「未曾有の敗戦」からまだ100年経っていない。初期40年で経済復興したのだから次期40年で精神復興すれば良いではないか。日本民族の長い歴史から見れば100年は大した時間ではないのだから、武士道精神を取り戻すだけで解決する。日本の財産は土地不動産や工業技術ではなく、天皇制と武士道に支えられる知的財産である。日本は米国の圧倒的物量作戦の前に完膚なきまでに敗北し焦土と化したために、軍備や設備などの有形財産は完全に消滅したが、天皇制と武士道という無形財産は残った。日本の物的復興は果たしたのだから、次は精神復興つまり日本人の魂の復活である。魂の復活を果たすには歴史や伝統に支えられた思想理念や倫理道徳規範がなければならない。日本国を支える制度基盤は世界に27残された王室の中でも最古を誇る、第125代明仁天皇で2670年続く万世一系の天皇制である。キリスト誕生から2010年を考えれば如何に天皇制が長い歴史と伝統を誇るか理解できるが、ちなみに英国王室は第41代エリザベス女王で944年、米国合衆国は第44代オバマ大統領で建国221年だそうだ。世界最古を誇る天皇制を支えてきた神道は皇室の歴史と共にあったと考えられるし、武士道は源平を起源としても1000年の歴史がある。武士道は日本人の魂となって日本人の倫理道徳規範となり国難のたびに日本を守ってきた。だから日本は天皇制と武士道の二つの無形財産が残る限り、滅ぶどころか何度でも不死鳥の如く復活するはずである。
日本人のアイデンティティ
グローバル世界が広がるに従って、人種民族の特性や文化はお互いに大切にし尊重されなければならない。しかしお互いに大切にしろ尊重しろと主張しあっているだけでは、かえって対立し争いのもとになる。自然に相手から大切にされ尊重されて初めて特性とかアイデンティティといえるのであって、私たち日本人が自信を持ってアイデンティティといえるものは何かを見出すことが本書の目的のひとつであった。日本人のアイデンティティとは「武士道」に象徴される謹厳実直懸命無私であろう。易しく言えば何事によらず無欲で誠実に一生懸命取り組む姿勢といえよう。日本人は生真面目過ぎるとか融通が利かないという人がいるが、不真面目と言われたり、だらしが無いと言われるより良いではないか。日本は欲がないとか騙されやすいと言う人もいるが、強欲であくどい国と言われるより良いではないか。それが日本人であり日本だと、堂々と胸を張って誇ればよいではないか。強欲であくどく民衆を騙そうとした人種差別主義も植民地支配も金融資本主義も悉く滅び去ってしまったのだから。日本人ひとりひとりの魂に武士道精神が復活するならば、日本人は欧米諸国のみならず、アジア・アフリカ諸国やアラブ諸国からも絶大な信頼を勝ち取るに違いない。私たちの親世代は人種差別主義や植民地支配と勇敢に戦ってきたが、私たち世代はいま金融資本主義や核支配と戦っている。どちらの戦いも柔な精神では太刀打ちできない。「武士道復活」に世界の民衆や非核保有国から熱い期待がかけられているからには「義を見てせざるは勇なきなり」の中国故事に倣わなければなるまい。それこそ「武士道まさに鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問われる」ことにもなる。
新和魂洋才の復活
武士道の精神は知行合一であり口先だけで実行が伴わなければ意味がない。武士道はサムライの倫理行動規範だから、日常の行いの中にこそサムライの魂が宿っていなくてはならないが、どうすれば魂が宿るかが重要課題だ。前章以前でゴルフの思想起源や名人達人たちのゴルフに対する取り組み姿勢を見てきたが、ゴルフには武士道精神やサムライの魂が宿っていることに気が付いた。ゴルフは欧米社会の人間教育プログラムであることにも気が付いた。人はゴルフによって精神が鍛えられ魂が磨かれるだけでなく、倫理道徳を弁え品格が備わるからこそ、ゴルフが欧米の教育に導入され人間教育プログラムとして利用されてきたのである。ゴルフ規則第一章がエチケットではじまることも、自己審判・自己申告に基づく審判不在のゲームであることも、全てジェントルマンシップの涵養を目指すものだからである。ゴルファーがジェントルマンなのではなく、ゴルフがジェントルマンを育てるのである。ゴルフはキリスト教騎士道精神によって支えられ、欧米の青少年はゴルフによってジェントルマンシップが養われてきた。欧米人の目にサムライはジェントルマンそのものなのである。正義の前に勇敢であること、礼儀正しいこと、正直であること、そして何よりも誠実で情け深いことである。欧米人特にプロテスタントが目指したキリストの精神そのものに他ならない。新和魂洋才すなわち武士道精神を持った理想のゴルファーこそ21世紀を担うエリートの姿である。新和魂洋才を備えたサムライゴルファーをグローバル世界にどんどん送り出し、世界中に同志をつくろうではないか。武士道は歴史が長いだけに旧教、仏教、儒教、新教の影響を受けてハイブリッド化し、既にグロ-バル思想となっている。また日本人は3000年ほど前に大陸からモンゴル、ヘブライ、漢、朝鮮民族などが、南方から台湾、ポリネシア民族などが渡来してハイブリッド化したともいわれているが、そうだとすれば既に昔から雑多な文化を導入してグローバル民族になっていたわけで、DNAの中に異民族にたいする抗体が充分できていることになる。外国人は日本人が世界中の食べ物を何でも食べてしまうことに驚くが、案外日本こそ雑多な混血民族で構成された世界最古の多民族国家だったのかもしれない。
アジアの繁栄と世界平和
21世紀はアジア・アフリカの時代といわれているが、悪く解釈すれば近代化が遅れた最後の地域市場開拓の時代とも取れる。東南アジア・インド・中国を見れば、先進国が辿った道をただ追いかけているようで、前車の轍を踏まなければよいがと思う。グローバル世界は地球規模で物事を考えようということだから、無駄な努力や失敗経験は極力避けて近代化を図るべきだが、環境汚染問題では失敗経験と未体験が既に真っ向から対立している。日本はアジア・アフリカ領域で最初に近代化した国だけに、欧米先進諸国との対立や軋轢も経験してきたが、それは絶対に有効活用されなければ、努力し犠牲を負った先人たちに申し訳が立たない。武力を使った植民地支配も、経済力を使った金融支配も必ず大きな犠牲を伴い失敗することは歴史が証明している。ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」に従えば私たちの戦争体験はそろそろ歴史の領域に入りつつあり、金融支配は生々しい経験のさなかにある。だからいまは、愚者も賢者も先人たちが残してくれたゴルフと武士道という素晴らしい無形財産で装備し、ひとりひとりが平和の使者・平和の戦士となってグローバル世界に雄飛して欲しいと思うのである。ハイブリッド思想・武士道精神で武装したハイブリッド人がサムライゴルファーとして出陣するならば、行く先々に多くの同志が集まるはずだ。武士道精神は宗教信条の壁を越えて人々の魂を揺り動かす力がある。ゴルフは人種国籍を超えて老若男女誰とでも楽しく競えるゲームである。武士道精神を持った正統ゴルファーを新和魂洋才と定義し、21世紀グローバル世界のエリートと呼ぶことにすれば、新たなエリートたちによって実現するアジアの繁栄は、今度こそ世界を平和に導くに違いない。(完)
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