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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第12章 勝負と慈悲

勝負とは

武士にとってもスポーツマンにとっても、勝つか負けるかは天と地の差がある。勝負あっての闘いであり、そこに全力を注ぐのは当然のことであるが、この勝負の世界に倫理や道徳を求めることほど困難かつ矛盾したことはない。弱肉強食の自然界は日々、食うか食われるかの命を懸けた壮絶な闘いを繰り返している。基本的には人間も同じことで、日々何かの命を食らって己の命を繋いでいることに変わりはない。しかし、自然界には共食いをしないという厳粛な神の掟があって、人間以外の動物は忠実にこの掟を守って暮らしているうえ、更にもうひとつ、決して必要以上に貪らないという掟も守っている。猿山のボス争いに犠牲者を出した話や、報復によって凄惨な殺戮が行われた話はついぞ聞いたことがないし、次のボスの座を狙うために椰子の実を溜め込んでいた猿の話も聞いたことがない。それゆえ人間社会より猿社会の方が、もう少しましな倫理道徳の教育をしているのではないかと疑うのである。
厳しい勝負、それも命のやり取りに明け暮れる武士の社会に倫理道徳規範である武士道が育ったことは、人間としてせめてもの救いではないか。もし武士が職業殺人集団に過ぎなければ、戦闘が終了し平和が回復した時点で無用どころか危険な存在となって、忽ち粛清される運命にあったはずである。武士は基本的に平和愛好者であったから長い歴史の中には例外があるものの、大義や主君の命令がなければ争わなかったし、争っても無益な殺生は好まなかった。戦国武士の時代から源義家や熊谷直実の例にあるように、無益な殺生を好まず、かえって敵に深い慈悲の思いを寄せている。勝負は時の運と考えて結果に対して淡々とした思いも持っていた。生死を賭けた戦場で「命を惜しむな、名こそ惜しめ」といって命以上に人間の尊厳を大切にしている。勝負にこだわるがために卑怯な手を使い、敗北を認めようとせずに醜態を晒すことを武士道は厳しく戒めている。「敗軍の将、兵を語らず」ともいい、負け方も大切であるという。逆に「勝って兜の緒を締めよ」といい、勝ったときの姿勢も大切であると戒める。だから勝ち負けに一喜一憂することなく、勝負は時の運と思って淡々と受け入れよというのである。勝者には勝者の、敗者には敗者の姿勢があるというが、勝者は勝って驕らず神に感謝する姿勢と敗者を思いやる心を持てといって、元寇の役に九州鎌倉武士たちが元軍の捕虜、特に南宋兵に示した惻隠憐憫の情は見事という外ない。蒙古に祖国を滅ぼされた南宋の兵士たちは、捕囚となって元軍に徴用され、日本を占領してその地で生きるよう言い渡された哀れな難民であったらしいが、その立場に同情した鎌倉武士たちは命を助けるだけでなく、唐人町を拓いて生活まで助けたという。
鎌倉武士たちの武士道精神は20世紀に至るまで脈々と受け継がれ、アジアの解放を唱ってアジア諸国に散っていった日本兵の勇敢な戦いぶりと、現地の人々に示した礼節と惻隠の情は、今も現地の年寄達によって語り告げられている事実に触れるにつれ、私たちが戦後教育で受けた歴史認識の間違いに驚かされるのである。武士の礼節を弁えた戦いぶりは、今世紀に入っても国際舞台で戦うスポーツ選手に脈々と受継がれている事実を目の当たりにして、私たちは知らず知らずのうちに祖国や日の丸に対する理性的な愛着を覚える。
日本選手がユニホームに日の丸をつけ、口元を引き締めて正々堂々と闘うさまは、まさにサムライの復活であり、新渡戸のいう日本の魂そのものの復活でもある。

神の掟

自然界の中で神の掟、人の倫を忘れた人間の争いほど醜いものはなく、猿も目を覆いたくなるだろう。自然界は神の掟である弱肉強食の原理に従って生命を維持しなければならないし、優勝劣敗の原理も甘んじて受け入れなければならない。神は自然界に対して冷厳なる掟として弱肉強食、優勝劣敗なる原理を定め、自然淘汰という法則に従って地球生命が維持されるよう定められた。ただし神は人に対してだけ自由意思と知恵を与えられ、同時にその能力を自制する戒めをも与えられて、自然界の秩序を維持されようとしたが、人は神の命令でもある戒めを忘れて数々の秩序破壊を行ってしまった。人は神から与えられた自由意志と知恵のみを振りかざしたため、神の命令である戒めを忘れて世の乱れを引き起こし、そのうえ自然界の秩序すら破壊しかねないのである。神の戒めは人の倫となり道となって倫理道徳を形成し、わが国には武士道というかたちで育ったものと考えられる。
だから倫理道徳や武士道なき人間社会は弱肉強食、優勝劣敗の原理に従う動物社会と同じであり、神の戒めを忘れた人の知恵は、猿社会に劣る醜い社会を創りかねない。いま世界で起きている社会問題は、全て神の戒めを忘れた人間の身勝手な行動や悪知恵から発生したものばかりで、今こそ私たちは人の倫に戻る以外に私たち自身を救う道がないことを悟るべきだ。

大東亜戦争と勝負

日本史上最大の国難は大東亜戦争の完膚なき敗北である。勝負だけに拘るならばもう少し利口な闘い方があったかもしれないし、政治的戦略からすれば戦争そのものを回避できたかもしれない。「歴史にifはない」とよく言われるが、もしあの時ああしておけば歴史は変わっただろうという話はよく聞く。例えば日独伊三国同盟を締結せず日英米三国協定を締結して共産主義の台頭に備えていたらとか、シンガポールが陥落したときに停戦協定を締結して欧米列強とアジア植民地を分割していたらというような「歴史のif」。旗艦プリンスオブウェールズを失って敗走する英国連合艦隊を追撃し、ドイツ潜水艦隊と挟撃してこれを全滅していたらとか、真珠湾に第二波攻撃をかけて米国太平洋艦隊に止めを刺し、ハワイを占領して太平洋の制海権・制空権を完全掌握していたらというような「歴史のif」。勝負を巡る「歴史のif」は、まず歴史の事実を厳粛に認識したうえで語らなければならないが、時が経過して歴史の事実が明らかになるにつれ、この戦争に対して日本は何処まで勝負に拘っていたのか甚だ疑問に思うことがある。両親はじめ戦争体験世代が「やむにやまれぬ大東亜戦争」という言葉をよく口にしていたが、天皇はじめ戦争責任を負う人たちのほとんどが戦争を回避しようと必死の努力をしていたにも拘らず戦争が始まり、その後の歴史証言の中でもほとんどの人が「最初から勝てるとは思っていなかった」と言うのである。ならば歴史に残るほど勇敢に戦った日本の兵士たちを、そこまで激しく動かしたものは一体何だったのか。更に敗残兵として生き残った兵士たちは一言の愚痴をこぼさず沈黙を守り、黙って靖国に謝るのはなぜなのか疑問は尽きない。「敗軍の将、兵を語らず」なら分かるが敗軍の日本兵は将を語らないのである。ルース・ベネディクトも『菊と刀』で次のように書いている。『捕虜は一人残らず天皇を誹謗することを拒んだ。連合軍に協力し日本向け放送に協力してくれたものでさえそうだった。最後まで頑強に抗戦した捕虜たちは「陛下は自由主義者であって、終始戦争に反対しておられた」と陳述したが、これはドイツの捕虜と趣を異にするものであった』と。疑問は深まるばかりであるが、新渡戸稲造は『武士道』で吉田松陰の「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬヤマト魂」と詠った辞世の句をとりあげており、「武士道は無意識の力として日本国民の一人ひとりを動かしてきた」とも述べていることから、一兵卒どころか日本の国民一人ひとりがヤマト魂で武装した義勇兵であったことを窺わせる。日本人は何に義憤を感じて、やむにやまれぬ思いを抱いたのか。19世紀から続いた白色人種による植民地政策と有色人種支配に対してである。ホワイトアングロサクソンの横暴非道に葉隠武士道も新渡戸武士道も義憤をもって立ち上がり、怒りの刃を振るったと理解すべきではないのか。学徒動員に応じた学生たちの遺書にも「この戦争に勝てるとは思わないが、アジア解放のために一命を捧げる覚悟ならば納得して戦場に赴ける」と書かれている。元寇の役も幕末動乱も大東亜戦争も国難に当たる武士道精神の発露であって新渡戸のいう「武士道は形式こそ整えていないが、過去も現在も我が国民を鼓舞する精神であり原動力なのである」ことに変わりない。昭和20年8月15日、天皇陛下の鶴の一声でピタリと戦争をやめた日本国民が、敗戦によってあらゆる物を失ったにも拘らず黙々と復興に取り組んだ姿は、やむにやまれぬ大事を成し遂げたサムライの晴姿に思えてならない。勝負は時の運として淡々として受け止め、そこから何を学びどう対処していくか。親世代の余りにも見事な行動に、尊敬を超えて民族の誇りすら覚える。「負けるが勝ち」とはまさに日本の姿を言い表しており、そののち米英ソ連が徐々に衰退していくさまを見るにつけ、この言葉の意味の深さを知るのである。この度の世界恐慌も米国は80年前の世界恐慌から何も学んでいなかったことを証明しただけで、せめて世界戦争に発展しないよう日本に学んで欲しいと願わざるを得ない。世界恐慌も世界大戦も「貪ってはならない」という戒めを忘れ、悪知恵を働かせた結果から生じた自然の摂理であって、歴史から神の掟を学ばない限り同じ結果が生まれるに違いない。いまこそ「弱肉強食」「優勝劣敗」原理に従わず、人間だけに与えられた知恵を世界規模で活用すべき時ではないのか。その知恵とは勝負に拘らない慈悲から生まれるもので、この世界規模の国難に当り、世界規模で武士道精神のウェーブが起きてくれたらと思うのである。

ゴルフの勝負

戦国時代の武将も出陣に先立って必ず祈りを捧げ、奮闘むなしく敗れたときも「天はわれに味方せず」とか「天意に逆らえず」という言い方をして、勝負を時の運と考えていた。
武士道精神もゴルフマインドも本質的に勝負に拘らない性格を持っていて、闘う姿勢や精神を大切にしている。勝負に及んで如何に勝つかではなく如何に闘うかが大切で、勝負だけに拘った、なりふり構わぬ姿は恥ずべきものとされている。既にマッチプレーの時代から騎士道精神によって正々堂々と闘うことが求められ、神は必ず正義に味方されると信じられてきた。既に何度も記したように、ボビー・ジョーンズはマッチプレーにおいて相手を思いやり、己の敵を愛することによって数々の強豪を倒し、世界チャンピオンとなってゴルファーの聖人とされた。ストロークプレーにおいては、神の前に正直に違反を申告して全米チャンピオンを逃したが、結果はゴルファーの鑑とされた。ゴルフにおいては神の前に如何に正々堂々と闘ったかが大切なのであって、勝負は神の審判として厳粛に受け止めなければならないものである。
1999年全英オープンにおいて「カーヌスティの悲劇」といわれる名勝負があった。2位のポール・ローリー(スコットランド)、ジャスティン・レナード(アメリカ)に3ストロークの差をつけて、最終日カーヌスティ18番ホールに来たジャン・バンデベルデ(フランス)は誰の目にも優勝確実だった。歴史に残る悪天候ではあったが、ジャンのティーショットは右隣のラフに入ってしまった。ラフから打ったセカンドショットは観客席を直撃して再びラフへ。カーヌスティ18番はグリーン手前が池になっているから、3ストロークの余裕を生かして無理をせず、池の手前フェアウェイに出すべきだと誰の目にも映ったがジャンはそのような気配は全く見せず、深いラフから直接グリーンを狙おうとしていた。初優勝を前にしてジャンの頭は白くなっていると誰もが思ったが、ジャンは迷う様子もなくラフからグリーンを攻めた。案の定深いラフに食われてボールはグリーン手前池の浅瀬に落ちたが、ジャンは靴を脱いでそこから又グリーンを狙おうとしている。しかしどうしても打つことができず、ワンペナルティーを払って元のラフに戻り、再びグリーンを直接狙ったが今度は左バンカーにつかまった。バンカーからグリーンに乗せ2パットのトリプルボギーとなり、プレーオフの末に地元スコットランドのポール・ローリーに敗れて初優勝を逃した。このときの6オーバーパー優勝は全英オープン史上ワースト記録であったが、それ以上に最終ホールの出来事は「カーヌスティの悲劇」として多くの人に語り継がれている。ところがジャン自身は勇者としてフランスに凱旋し、英雄扱いされているのである。この模様は英国航空機内誌に詳しく報道されたが「もし私が宿敵英国に乗り込んで卑怯な闘い方で勝ったとしても、祖国フランスは私を勇士として迎え入れてくれなかっただろう」と語って家族を抱く幸せそうな写真が掲載された。フランス騎士ジャン・バンデベルデはイギリス人の目の前で聖地カーヌスティを臆することなく勇敢に攻め続け、武運拙く敗れはしたがフランス国民は国を挙げて彼の闘いぶりを勇士として賞賛した。ヨーロッパに脈々と伝わる騎士道精神も、武士道と同じように勝負に拘らない正々堂々とした戦いを求める。このようにゴルフでは勝負よりも、むしろ如何に闘ったかを大切にして戦いの中に正義、誠実、勇気、寛容、慈悲など人格の全てを見ようとするのである。

ゴルフの慈悲

ゴルフルールは随所に慈悲の心を認めている。プレーヤー同士が戦うマッチプレーにおいては慈悲の心がなければ殺し合いになりかねない。ルールの裁定は互いに対戦相手がすることになっているから、どちらかが無慈悲な裁定をし始めれば報復の応酬となって、仁義なき戦いに発展する恐れがある。ショット後に誤所プレーを指摘され打直しを命じられる。素振りを空振りと裁定される。ボールを動かしたと裁定される。など争う気になればいくらでも条件は揃うところにゴルフの危うさが潜んでいる。だからやくざな性格な人と試合をすると、二度とゴルフがしたくなることすらあるが、それが自分自身であることに気付かなかったときは更なる悲劇である。対戦相手から慈悲や寛大な処置を示されながらもその善意に気が付かず、別の対戦相手に無慈悲な態度を示してしまうことは、案外誰もが陥りやすい過ちなのである。武士道は「知行合一」といって言動不一致を戒めるが、世間も「論語読みの論語知らず」などといって立派なことを言う人を戒める。聖書も「なぜ人の目の中のチリに目をつけて、自分の目の中の梁に気が付かないのですか」とイエスの戒めを語っている。ボビー・ジョーンズに見るように、史上最強のゴルファーは大きな慈悲の心の持ち主で、対戦相手を思いやり励まし続けたそうだから、英国の強豪ハリー・バードンもついにボビーの優しさの前に屈服させられた。私たちは如何に高等教育を受けたとしてもなかなか人格を高めることができず、人に対する思いやりや慈悲の心を持つことができない。真剣勝負の場や社会生活の場を通して誰かから慈悲の心を示されたとき、人は初めて自分自身の無慈悲な心に気が付き、自らを振り返ることができるのである。エチケットやマナーについても、他人の姿はすぐ気が付くくせに、自分のしていることは何も分からず他人批判に走ることは、古今東西にわたって先人たちが戒めるところである。
ストロークプレーにおいては、みんなで仲良くコースと戦う訳だから、同伴プレーヤーと争う必要は全くないが、審判員不在の自己審判制度によって競技を進めるところに問題と課題が潜んでいる。審判員不在を良いことに、好き勝手に不正や違反を繰り返して平然とされるほど不愉快なことはない。まして競技やコンペに参加しているときは、勝負に拘る以前の問題として正義感が許さないことがある。クレームを付けるかどうか迷っているうちに、集中力が途切れて自分のゴルフが台無しになった経験の持ち主は多いはずだ。しかし自己審判制度を審判員不在と考えるところに問題があって、本来は神の審判に基づく自己責任制度と考えなければならない。不正や違反は確かな証拠があるか、現場に居合わせない限り罰則を適用することは難しい。強行に申し入れて不正違反を認めさせたところで双方に何の得もなく、不快な思いと遺恨が残るだけという誠に厄介な問題なのである。更にエチケットやマナーの違反に関しては確かな明文規定も罰則規定もないから、ひたすら本人の自覚と判断に委ねなければならないという課題を負っている。ゴルフがキリスト教圏に育ちプロテスタントによって発展した歴史背景から、神の前に偽れる者、不正を働く者はいないはずだという前提のうえに成り立つ競技であるから、無神論者や良心の乏しい者にかかると全くお手上げになってしまうのである。武士道ゴルファーの清廉潔白さは国際的に定評のあるところだから、宗教信条の違いがあっても騎士道ゴルファーから信用されるが、無軌道ゴルファーや極道ゴルファーは手がつけられない。結局プライベートクラブという閉鎖社会を創って、宗教信条の異なるものを排除するしかなかったという経緯がある。ゴルフ規則第一章はエチケットとなっており、他のプレーヤーやコースに対する思いやりとプレーの危険と遅延の防止を謳っているが、ひたすらプレーヤー自身の責任と自覚に負うか、不届き者を排除する以外に打つ手がないという課題は未解決のままである。ストロークプレーで勝負に拘りだすと、プレーヤー同士の相互信頼がない限り際限のない不信と猜疑心に陥り、ゴルフの本質が見失われる恐れがある。もしゴルフコースのあちこちに監視員や監視カメラを配置するような事態が発生したら、もうゴルフなんて止めた方がよい。ゴルフ規則第二章はプレーの規則となっており、プレー上の規則がこと細かに規定されているが、ゴルフの本質からすれば馬鹿馬鹿しいものが一杯ある。複雑難解な規則のほとんどは勝負の一打に拘る救済措置で、騎士道ゴルファー・武士道ゴルファーなら潔くペナルティーストロークを払ってアンプレヤブルにすればよいではないかと思うことがある。サムライゴルファー中部銀次郎が生涯貫いた「あるがままに」と「アンプレヤブル」の規定があれば、後はほとんどゴルフマインドに反するような女々しい規則ばかりで、誰がゴルフ規則をこんな厄介なものにしたのか問質したい。恐らくは勝負に拘るいくじなし供と賞金に拘るハスラー供が寄ってたかってこんな厄介な規則をつくったに違いないからだ。
神の前に如何なる試練をも恐れず、正々堂々と闘うことを誓った騎士道精神は何処へ行ったというのだ。「あるがままに打つ」ことを大原則に、止むを得ないときだけ「アンプレヤブル」の規定に従って処置すれば、規則が簡単になるだけでなくゴルフの伝統精神は守られゴルファーの人格は研鑽されるのに。武士道ゴルファーには女々しい救済措置の適用など受けず、潔くアンプレヤブルを宣言して自らに一打加罰する勇気が欲しい。ありとあらゆる卑怯な手を使って良いスコアを出し、勝負に勝ったからといって、自分自身の品性や人格はさもしくなるばかりである。
ゴルフ規則の本質はプレーヤーに対して高邁なる精神を要求していることは、規則第一章がエチケットから始まることからよく分かるが、このことはゴルフ愛好者の精神基盤となり誇りともなっている。勝負が命のスポーツゲームの中に倫理道徳を真っ先に掲げるとは見上げたものだと思うが、ゴルフが究極の個人ゲームであることから、最初に精神を謳い上げなければゲームそのものが成り立たないという根本的な理由がある。神の審判の下に厳粛かつ誠実にプレーしなければ、子供の蹴鞠遊びと大した違いがないほどゲームそのものは単純極まりない。この単純極まりない遊びに<あるがままに>と<自己審判>という大原則を導入したことにより、人間にとって極めて高度な精神の領域を引き出すことに成功したのである。自己審判の原則の中にも高度な精神を汲み取ることができるが、「アンプレヤブル」を宣言するとき、誰の裁定を仰がなくとも自分自身で判断すればよい、とされる点に高度な精神文化を感じる。特に自分自身を救うためでなく、小さな命を救うために一言の言訳もせず「アンプレヤブル」を宣言してワンペナルティーを払い、ボールを動かして黙々とプレーを続行するゴルファーに勇気と慈悲の心を感じる。